自分と距離を置くアイコ。まっすぐ心に入ってくる飛坂。
近づくほどに苦しくて、遠のくほどに愛おしい――。
理系大学院生・前田アイコ(松井玲奈)の顔の左側にはアザがある。幼い頃、そのアザをからかわれたことで恋や遊びには消極的になっていた。しかし、「顔にアザや怪我を負った人」をテーマにしたルポ本の取材を受けてから状況は一変。本の映画化の話が進み、監督の飛坂逢太(中島歩)と出会う。初めは映画化を断っていたアイコだったが、次第に彼の人柄に惹かれ、不器用に距離を縮めていく。しかし、飛坂の元恋人の存在、そして飛坂は映画化の実現のために自分に近づいたという懐疑心が、アイコの「恋」と「人生」を大きく変えていくことになる・・・。
本作は、アイコと飛坂との恋愛を切ない距離感を感じるラブストーリーのみならず、アイコが自分の人生と向き合い、前に進んでいく様をも繊細に描き出す。そんなアイコの姿は、誰もが抱える弱さと響き合い、その弱さを新しい視点で見直し、アイコと共に一歩前へ踏み出す力を与えてくれるはずだ。世代や性別を超えて幅広く、静かに、でも確かに、心に響く傑作が誕生した。
※敬称略・50音順
島本理生の生み出した、恋でぼろぼろに傷つき、恋で自分を知る女の子。むずかしい恋だとわかっていても、飛び込まずにはいられない。
松井玲奈が浮かび上がらせたアイコの輪郭を、安川有果は光の中に映していく。
踏み出すのが怖い、という感情を持つのは自然なこと。でも、一歩進んでみれば違う世界が見えてくる。アイコがときに涙を流しながらも、しなやかな強さを宿して踊る様は、観る者の背中を優しく押してくれる。
「女性監督ならではの視点」なんて野暮な言葉だ。安川有果という監督が捉える感情には、心の芯を震わす力があり、繊細さに寄り添う姿勢はいつしか攻撃的な気味悪さに変わっている。 登場人物たちが「二本の足で立つ」その瞬間が描かれている。それがどうにもこうにも美しかった。カッコよかった。
絶対に映画館で観届けて欲しい。
光を教えてくれるのが闇であるように、マイノリティという経験は「ない方がよかったが、あってよかった」と私にいつも思わせる。
きっと、アイコの闇は消えない。だがそれは、アイコのそばに光がこれからありつづけることを意味している。ラストシーンのかがやきは、彼女の美しさそのものだった。
人間の目は全ての光を見ることができない。紫外線や赤外線などをのぞく、ごく限られた可視域の世界の中でさえ、どれほど自分は「見えているのか」。そのことに気づかせてくれる、鏡のような物語。
ざらざらのカカトを軽石で擦って磨き上げるように、 切ない恋は少女をオトナへと磨き上げてくれる…。
「おクズ様は女の人生の軽石ですなぁ」と 心を前向きにしてくれるステキな映画でした。
きれいな俳優が「顔にアザのある女性」を演じる事に期待と不安がありました。
主人公アイコは恋に臆病で、だけど好きという気持ちにまっすぐな強い女性です。私も、一方的な視線を向けられるのではなく、真剣に誰かと向き合う恋がしたいと思いました。
赤の他人のインスピレーションの源になるというのはわくわくするような体験でもあり、とてもつらい体験でもあります。この映画は、そうした経験を芸術作品のモデルになる人の視点から繊細なタッチで描いています。
私たちは他者を通して自分を知る。 「あるがままの私を受けいれ愛してほしい」と願う。 けれど他者によって自分を規定する必要はない。 私が私を受け入れ、私が私を愛する。 そんな自分の愛し方を、優しくも凛とした強さで伝えてくれる映画です。
ぜひ見てほしい。
この映画は「ありのままの自分を愛そう」と声高に謳わない。 こんなに傷つけられてしまう恋愛ばかりのこの世界で、 否応なくルッキズムに縛られてしまうこの世界で、「ありのままの自分」が脆弱な存在になりえるこの世界で、 そんなメッセージはときに、欺瞞の響きを伴いさえするだろう。
安川有果はひとりの女性の〈片想い〉に、多くの〈想い〉を込めた。 ひとつのドラマを跳び越えて、そこには映画作家として、映画が内包してきてしまった非対称性や暴力への自覚的な意思表明も含まれている。 シスターフッドを伴奏にして見えない羽根を揺らす女性たちの舞いが途切れるその瞬間まで、眩く切実な〈想い〉のすべてを決して取り零してはいけない。
好奇の目より、それを叱る言葉の方が痛いとか。「びわ湖」が刺さるとか。当事者の多様なリアルが細やかに織り込まれ、観る者の傍らに “気づき”をそっと置いていってくれる。決して押し付けることなく。
誰かと深く関わりたいと思った時、より深く見つめるのは自分の内面なのだ…と、どんどん表情が変わっていくアイコと一緒に、感情のジェットコースターに乗っている気分でした。
観終わった後は温かな気持ち。 素敵な気持ちでした。
沢山の方に届いてほしい作品です。
「“見た目”と正直に向きあえば、人生の次の扉が開かれる。」 アイコを通して、誰もがそう実感できる映画です。
数年前、当事者の方々の交流会で演奏し、短いながら皆と話をしてみると、皆が「想像以上に」明るい事に驚いた。差別区別のない私だと思っていたのだが「想像以上に」という感覚を私は恥じた。これこそ見た目を差別してきた感覚だったからだ。映画を見たあとあの頃の私の恥ずかしさが思い起こされた。
誰も当事者本人にはなれないが、この映画を機に少しずつあなたの「見る目」が変わればいい。以前の私のように。
人は仕事もするし恋もする。あなたも当事者も同じ社会に立っている。とても美しい映画をありがとう!
かすか不安や、かすかな疑い、その積み重ねによって得られる、ともすれば切り落とされてしまいそうな細やかな感情のひとつひとつが伝わってくる。そんな映画でした。
じんわりとしみ込んできて心の中にソット足音を残されたような気がしました。世の中には白黒をつける事が出来ない事がある中彼女が生きている様がよかった。 そして周りで生きている俳優さん達の無理のない居方心地がよかった。 安川さん鎌倉の上映会で会えて良かったね。映画を愛してくれてありがとう。
「マイノリティ性」を通して当事者が世界を見ることと、世界がマイノリティ性を通して当事者を見ること。カタルシスに他者が踏み入るときの足跡、その足跡の粗さ、それでもあなたが居心地のいい場所を選ぼうと思えるなら。
控えめに生きてきた瓜実顔の女は、曖昧な恋愛に揺らぎ、愛するゆえの孤独を感じる。それは自然な感情だ。凛として乱れる前にみずからをとどめる強さ。ラストの夕陽を指した彼女の姿は、美しくて走馬燈に現れそうだ。
「でも、美人でしょう」
「でも、頭がいいのでしょう」
「でも、お金があるのでしょう」
「でも、家族に恵まれているのでしょう」
「でも、あなたは主人公になるのでしょう」
「でも、顔にアザがあるでしょう」
「でも」の全部を無視できればいいのに。
アイコの心、選んで産み出した光のことだけ大好きになりたい。それは誰にもできない。
選べなかった全てと、選んできた全てには関係があるから。
「でも」「だから」みたいな、すべてをひっくるめて人を大好きになったり、大嫌いになったりすることしかできないなと感じる映画でした。
開始13分で主人公のアイコ(松井玲奈)と一緒に号泣し、そのあとも数えきれないくらい泣かされたけれど、ただの感動作ではなくすべての個人を悩みから解放する作品で、とか色々言ってきたけれど、めっちゃ好き。めちゃくちゃ好きな映画でした。
増村保造からセリーヌ・シアマの遙か先まで走っていく怒涛の100分。 クラシックな恋愛映画の濃密さに、ルッキズム、当事者と演技、表現の加害性など、あらゆる現代の問題提起がぶち込まれて、全く新しい映画に変容する。 これが僕の今年のベストワンです。